11 温泉寺

温泉地によっては、その発祥の由来など様々な歴史的経緯から、神社ではなく寺によって守護されているものがある。温泉寺である。

 温泉寺のポピュラーな形態は薬師如来又は薬師堂であるが、そのものずばり温泉寺という名の寺院が存在する温泉地もある。これでは、是非訪ねて訪ねて見なければるまい。

 その代表的な寺の一つが下呂温泉の温泉寺である。臨済宗妙心寺派の古寺で、山号を医王霊山という。

 山上に下呂温泉の老舗旅館湯之島館がそびえる中根山の中腹に建立された寺であり、173段の石段を登ると、境内からは飛騨川の流れに沿って展開する下呂温泉の温泉街が一望できる。

 下呂温泉は、天暦年間(947~957)に東方湯ガ峰の山頂近くに湧いているのが発見されたと伝えられる古湯であるが、文久2年(1265)、突然温泉の湧出が止まってしまう。その翌年、村人が飛騨川の河原に毎日一羽の白鷺が舞い降りるのに気付いた。そこには温泉が湧き出ていていた。空高く舞い上がった白鷺は、中根山の山中の松の木にとまり、その下には一帯の薬師如来が鎮座していた。白鷺に化身し、温泉の湧出を教えた薬師如来を本尊として奉納したのが、温泉寺開創の縁起とされる。


 温泉寺の創建は寛文11年(1671)とされる。それまでは湯島薬師堂とよばれていたようであり、記録では永正4年(1507)の薬師堂鐘銘が最も古いものとされる。(以上、温泉寺のホームページによる)

 下呂温泉を全国的に有名にしたのは、その著書「梅花無尽蔵」で、下呂を草津、有馬とともに天下の三名湯として紹介した室町時代の五山僧万里集九である。温泉寺の境内の本堂前には、温泉水の湧き出る湯薬師如来像があり、その傍らには、万里集九の詩文碑が建てられている。

信州の渋温泉にも温泉寺という名の寺がある。山号は横湯山であり、本尊は釈迦如来である。

 渋温泉は、武田信玄の隠し湯の一つとされる名湯である。奈良時代神亀年間(724)僧行基が東国を巡視行脚した際発見された。嘉元3年(1305)京都東山の臨済宗東福寺の虎関師錬が巡錫の折、この地に草庵を結んだのが横湯山温泉寺の創始である。

 室町期の天文23年(1554)佐久郡前山の貞禅寺住持節香得忠和尚により曹洞宗として中興された。戦国期、武田信玄から寺領を安堵されて本堂を整備し、以来信玄を開基として、武田の四菱を寺紋に用いている。江戸期には、真田家の庇護を受け隆盛したとされる。

 寺内には豊富な温泉が湧出しており、これを利用して、虎関禅師縁りの京都東福寺の竈風呂を似し、古来の寺湯を再現した信玄竈風呂がある。渋温泉の厄除巡浴外湯巡りでは、番外湯として列せられている。

渋温泉には、他に高薬師という温泉寺もある。

 温泉地によっては、入浴客の足を自然と温泉神社・温泉寺に向かせる仕組みを用意しているところもあるが、渋温泉の厄除巡浴外湯巡りもその一つである。この外湯巡りでは、薬師如来の温泉鎮護にあやかるべく、一番の初湯から、笹の湯、綿の湯、竹の湯、松の湯、目洗いの湯、七操の湯、神明滝の湯、渋大湯と9つある共同浴場(外湯)を巡浴し、九(苦)労を流し、厄除、病魔退散、安産、育児健康、不老長寿を祈願して、浴場の入り口に置いてある御朱印を手ぬぐいや腹帯に押して回り、最後に高薬師(渋薬師庵)を巡って授印し満願となる仕組みである。

渋薬師庵は、行基の発見した霊泉といわれる大湯に面した石段を60段余り登った高台にあり、 温泉の効能を知らせるために行基が刻んだとされる薬師如来を祀っている。

 

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