朝廷では、延喜年間(901~922)に全国の神社を調査した。この調査の結果に基づいて作られたのが延喜式第九神名上・第十神名下(いわゆる神明帳)であり、これに登載され神社を延喜式内社あるいは式内社という。創建が古く、由緒のある神社であることを示すものとされる。
岩本徳一「解題」・神道大系古典註釈編七延喜式神名帳註釈19頁によれば、「神名帳」に登載された神社(式内社)には、毎年二月四日祈年祭に当り班幣がある。「神名帳」は祈念祭班幣のための台帳であり、そこに登載された神社は古社の代表として、式外神社・国史現在社以上に由緒的にも上位に置かれ、そのことは明治維新後の社格制度の準拠として、式内社を第一順位とするなどからも、後代にまでその影響を及ぼしているという。
この神明帳に、温泉ゆかりの神社であることを示す温泉神社・湯神社の名で登載されている神社が11社ある。
その一つである那須温泉(ゆぜん)神社は、狩人が傷ついた白鹿を追って発見したと言い伝えられる那須温泉の温泉守護のため建立された。奥の細道にも登場する殺生石のある谷を見渡す場所にある。 祭神は、大己貴命、少彦名命、相神 誉田別命(ほんだわけのみこと)である。誉田別命は八幡様と呼ばれ、武運の神として尊ばれ勝運を祈る神である。温泉神社略記によれば、上代よりこの温泉神社の霊験は国内に名高く、聖武天皇の天平十年(七百三十八年)には都より貴人が那須に湯治に下った事が記載されており、清和貞観十一年(八六四年)には朝廷より勲位を贈られているとある。平家物語には、文治元年(一一八五年)那須余一宗隆、源平合戦屋島の戦で、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明〔下野国〕、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくは、あの扇の真中射させてたばせ給えへ。」と温泉神社を祈願し見事扇の的を射た下りが登場する。
那須温泉の元湯鹿の湯の上にある広い境内の奥に鎮座する本殿は慶長十二年(一六〇七年)那須資晴の建立とされる。狩ノ三郎行広が温泉発見の功により見立神社祭神として合祀されている。」
鳴子こけしで有名な宮城県の鳴子温泉は、川渡、東鳴子、鳴子、中山平、鬼首の5つの温泉地よりなる鳴子温泉郷の中心にあり、温泉の泉質の種類が豊富な、古くから京の都に知られていた温泉地である。出雲抄(一二一九年)には、陸奥の温泉として、名取の御湯(秋保温泉)、飯坂の佐波古湯と並んで玉造鳴子の湯が挙げられている。鳴子温泉神社は、温泉の起源となった火山噴火の沈静を願い出た住民の要望により朝廷が祀った神社といわれる。祭神を大己貴命、少彦名命とする。その縁起書には、次のように記述されている。「五四代仁明天皇の承和四年(八三七)当社境内南側に聳える鳥谷が森が突然、轟々と鳴動を始め、数日地鳴りが続いたあと、轟然と爆発した。噴出した溶岩は、山を焼き、熱湯は河となって流れた。噴出したあとには、新しい沼が生まれた。住民は、火山の爆発を怖れ、国司に平穏を願い出たところ、朝廷は神の怒りを鎮めるとして、一社を建て温泉神社を祀った。続日本後紀六に承和十年九月五日、玉造温泉神に従五位を授けたと記してある。火山の噴火を機に鳴子温泉の地名は鳴聲(なきごえ)の湯と称したが、その後慶長(一五九六)伊達政宗の頃に、今日の如く鳴子と改められた。」
藩政時代には、温泉神社では、源頼朝が藤原泰衡に対する戦勝を祈願し、奉納したことに始まるといわれ、九州の明烏東京の浅草と並び三大田舎相撲として知られた鳴子相撲(「石かけ相撲」)が奉納されていた。現在も、神社境内には土俵が設けられており、相撲大会が催される。
拝殿前には、こけし蒐集家深沢要氏によるこけし歌碑が建っている。鳴子温泉では毎年九月第一土日曜に全国こけし祭りが開催されるが、温泉神社はこの祭りの中心になっている。
神社の境内からは効能豊かな温泉が湧出しており、神社の石段下にある共同浴場滝の湯はこの源泉から湯を引いている。
鳴子温泉郷でもう一つの延喜式内社の温泉神社である川渡温泉の温泉石(ゆいし)神社は、温泉街から少し入って所にある石造りの鳥居をくぐり、石段を上った高台にある。鳥居の奥には、斉藤茂吉の碑がある。その先の石段を上っていくと現れる狛犬を従えた社殿は、こぢんまりした簡易な造りのもので、そう古くない時期に建立されたものにみえるが、社殿脇の、温泉石神社宮司高橋久俊氏の書になる昭和五十六年九月吉日付けの「由緒」と題する石碑には、次のとおり記してある。「温泉石神社は約千百年前に作られた『延喜式神明帳』に玉造郡三座の一として登載されている延喜式内神社である 承和四年(八三七年)この地に大噴火が起り雷響き振へ晝夜止らず 周囲二十余尺の大石の根元より温泉河に流れ其の色水漿の如しと依ってこの石を温泉石神として祀り鳥居だけがあった 其の石上に承和十年神社を建立し大汝貴命少名彦命を祀り土人状を具して朝廷に奏し明治七年七月大口村の鎮守神として村社に列せらる」
さらに、福島県いわき市の湯本温泉にある温泉神社も延喜式内社である。いわき湯本温泉は、平安時代中期の寛弘3年(1006)ころの勅撰集である『拾遺和歌集』巻第七物名で「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」と詠まれている温泉といわれ、神社の参道登り口には、詩人草野心平の筆による歌碑が建っている(注)。
(注)さはこの湯は飯坂温泉を指すとする説もある。
祭神は、大己貴命、少彦名命、事代主命(恵比寿神)であり、御神徳に温泉医薬・救病済生・資源増強を掲げる。
参道石段脇にある案内板には、この神社が40代天武天皇2年(674)に小子部宿祢左波古(ちいさこべすくねさはこ)直足が初代神主として宮仕したことに始まる神社であり、貞観(じょうがん)5年(863)従五位下の神階を授かったとある。延喜式神明帳にも温泉神社として登載されていることを考えれば、その歴史の深さがうなずける。神社は、現在の地から西方5キロメートルにある霊峰湯ノ岳を神体山としており、慶安四年(1651)この地(三凾(さはこの丘)に遷座した。鎮座地はこれまで三遷している。
いわき湯本温泉は、平安時代には、既に都人に知られていた温泉であり、江戸時代には浜街道の温泉宿場としてにぎわったが、常磐炭田の開発により湯脈が寸断され、1919年源泉が完全に枯渇した。その後昭和17年(1942)になって、再び温泉が湧き出るようになり、昭和51年(1976)炭坑が閉山され、豊富な湯量が復活し、いわき湯本温泉は温泉地として再生した。温泉神社は、この千年湯の盛衰と復活の歴史を見守ってきたのである。
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