15 温泉寺と式内社たる温泉神社(その2)/有馬温泉

有馬温泉は、三方を山で囲まれ、山の斜面に開けた坂と石段の街である。中心街の湯本坂沿いには、老舗の土産物店が 軒を連ねている。坂の周辺には、温泉の泉源が点在し、それを取り巻くようにして、有馬十二坊と呼ばれて栄えてきた歴史を感じさせる温泉旅館や大型ホテルが建ち並んでいる。 

 有馬温泉の温泉寺は、坂の東側愛宕山の麓の有馬温泉のほぼ中心に当たる位置にある。参道の石段の麓には、右側に湯泉神社、左側に薬師寺と掘られた石標が立っている。石段を登って高台の更に一段高いところにあるのが温泉寺である。現在の本堂は、火災で焼失後、天明2年に再建された。

この寺は、寺号を有馬山温泉寺と称する。有馬切っての古刹であり、神亀元年(724年)、行基が薬師如来を刻んで御堂を建て、開基となった寺である。行基は、古来世に名を知られながら衰退していた有馬温泉を復興させたといわれる。

  その後、承徳元年(1097年)有馬温泉は洪水に遭って壊滅状態となったが、建久年間(1191年)、熊野権現のお告げを受けて、仁西上人が有馬温泉を再興し、荒廃していたこの寺を修復すると共に、仏を守る十二神将になぞらえて十二坊の宿坊を配置した。宿坊は温泉宿を兼ねていた。現在有馬温泉に「坊」がつく宿が多いのは、その流れを汲み、又はこれにあやかって名付けられたものといわれる。そのころ、温泉寺は、薬師堂と呼ばれ、真言宗智山派の寺であった。

  江戸時代元禄年間に、黄檗宗の住職が住職を兼ねるようになったことから、禅宗である黄檗宗の寺となった。明治維新の神仏分離の際、清涼院等末寺6寺院の住職が法事を執り行う無住職の寺であったため、廃寺の危機に立たされたが、薬師堂の奥の院であった清涼院と寺名を入れ替えて清涼院を廃寺とすることで、自らは存続した。

  その後、寺名を温泉寺と改称したが、地元の人々は今も薬師堂と呼ぶ。先の石標はその名残である。

  温泉寺は、あくまで堂々として古刹の佇まいを保っているが、歴史の荒波のなかで生き延びてきた力強さを感じさせる寺である。背後には、聖徳太子の創建で、太閤秀吉の造営した湯山御殿の湯殿跡の残る極楽寺があり(その裏には極楽泉源が湧出している)、正面左手横には、秀吉の妻ねねの別邸跡で、有馬温泉最古の正徳2年(1712年)の建造物である念仏寺があって、この歴史ある一角に風情を添えている。

  温泉寺下の高台の右手奥には石の鳥居が立っており、神社への参道の石段が続いている。季節にはあじさいの咲きそろう石段を140段ほど登ると、湯泉神社がある。

  湯泉神社は、延喜式神明帳に摂津国有馬郡の大座湯泉神社として登載された格式ある神社で、祭神は、大己貴命、少名彦命と熊野久須美命である。大己貴命、少名彦命は、薬草を求めて諸国を巡る途次有馬を訪れ、三羽の熊野権現の烏が赤い水で傷を癒しているのを見て温泉を発見したというのが有馬温泉の起源とされている。日本書紀には舒明3年(631年)に舒明天皇が、釈日本紀には大化3年(647年)に孝徳天皇が有馬温泉に滞在して温泉神社に参拝した記述がある。そのころ、有馬温泉は既に都に知られていたことが窺われる。その後、仁西上人の有馬温泉再興のころ、熊野信仰の影響を受けて熊野久須美命が祭神に加えられ、有馬温泉鎮護三神となったという。


  元は、温泉寺の境内に在ったが、明治維新の神仏分離により、現在地に移ったものである。惣社として、本殿向かって右に天津社を、左に国津社を伴っている。

  湯泉神社は、有馬温泉の温泉守護を担っているが、ほかに子宝、子授けの神としても有名であり、境内には子安堂も建っている。有馬温泉の子宝の湯としての効能に由来する。

  温泉神社と温泉寺では、湯泉大神と行基・仁西両上人に感謝して、毎年1月2日に「入初式」が執り行われる。その年の初湯を神前に奉納し、有馬温泉の繁栄と安全を祈願するもので、江戸時代から続けられている神仏合同の祭典である。

 有馬温泉には、ほかに有馬天神と呼ばれる天満宮がある。その境内にあることから名付けられた天神泉源からは、金泉と呼ばれる有馬温泉独特の鉄分を多量に含んだナトリウム塩化物強塩泉が湧出しており、いかにも有馬温泉の神社らしい趣を醸し出している。天元2年(979年)、京都の北野天神から分祀を受けて創建されたと伝えられ、泉源を守る神として崇められてきた。

 

温泉神社・温泉寺~温泉のパワースポット~

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