秋保温泉で代々湯守を務めた宿ホテル佐勘の敷地に隣接して湯神社がある。
こじんまりした社殿であるが、中には、間口一軒奥行き一軒の、歴史を感じさせる本殿が納められている。この湯神社の境内には、秋保御湯碑が建っている。温泉をたたえ、秋保温泉を伝える石碑である。元治元年11月25日の日付のあるこの石碑の碑文には、国学者安田光則の銘がある。
碑文中に、「覚束な雲の上まで見てしかな鳥のみゆけば跡はかもなし」の歌が見える。教育委員会の案内板は、この歌が人皇帝二十九代欽明天皇(在位531~570)の御製であり、欽明天皇はあるとき小瘡(一種の皮膚病)を患ったので、医祷百計を尽くし諸所方々の温泉で治療を試みたが、効験が現れなかった。ところが、この温泉に入浴したところ、たちまち全快し、たいへんよろこび、[御湯」の称号とこの御製を賜ったと伝えている。この伝承は、秋保温泉が皮膚病に効能があることを伝えている。
交通手段の乏しかったこの時代に、わざわざ温泉の湯をみちのくからはるばる京の都まで運び、天皇に献上したというのは、現代人には容易に信じがたいことであるが、未だ漢方医学も伝承されていなかった当時、温泉は、医者代わりの最も効果のある病気治療法だったのである。温泉の薬湯への入浴・飲泉が病気の数少ない治療手段として重宝されていたという背景を抜きにしては理解が困難であろう。
出雲国風土記は、忌部の神戸の項で、玉造温泉の効能を称えている。
釈日本紀も、伊予国風土記を引用し、「およそ温泉の貴く不思議なことは神世だけではない。今の世にも、病気になやむ諸々の生物は、病を除き身を長らえる最上の薬としている。天皇たちも温泉(道後温泉)に行幸されて京より降りたもうたことは五遍ある。」として、道後温泉に赴いた天皇一族を列挙している。その中には、聖徳太子の名前も見える。道後温泉を訪れた聖徳太子は、霊妙な温泉にいたく感動して、漢文体の文章を作り、湯の岡の傍らに道後温泉碑を建てたとされ、その碑文は、伊予国風土記遺文の中に載せられている。この石碑は、我が国最古の金石文として重用され、探索されているが、未だに発見されていないという(道後温泉の共同浴場椿の湯脇に建立された聖徳太子道後温泉碑の案内板による)。
栃尾又温泉の老舗旅館自在館の敷地の一角には、栃尾又薬師堂がある。堂の正面には、絵馬のほかおびただしい数のキューピー人形が奉納されている。実はこの温泉は、子宝の湯として名高く、人形は子宝祈願や子を授かった夫婦のお礼参りの印なのである。堂の境内には「夫婦欅(めおとけやき)」や「子持杉」がある。前者をくぐり、後者をまたぐと子宝に恵まれるとの言い伝えがあって、温泉の効能をPRする効果をもたらしている。
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